ジャッジ

こんばんは。

 

ワールドカップ、盛り上がっていますね。来年のラグビーワールドカップもこれくらい盛り上がるといいんですけれども。

 

さてさて今大会からビデオアシスタントレフェリー(VAR)が導入されて、韓国対スウェーデンではVARの判定でペナルティーキックが与えられたり、日本対コロンビア戦でもゴールラインテクノロジー(GLT)の映像が放映されたりと、レフェリングにも新たな風が吹いているな、と言った感じですね。

 

個人的にはVARのジェスチャーラグビーユニオンとテレビジョンマッチオフィシャル(TMO)と同じなのがツボですが...(ビデオ判定なので)

 

レフェリングの進化を目の当たりにしてふと思ったのが、「いつからレフェリーが生まれたんだろう」ということなんですよね。

今では忘れ去られたカーリングではレフェリーはいなかったし、ゴルフも確かいなかったよね...

 

色々調べていたら

http://m-taniya.blog.so-net.ne.jp/2011-01-25

こんなサイトを見つけました。

以下抜粋引用

「ルールが紳士を育む」岡田正義:日経2011年1月25日朝刊、スポートピアより

 

1800年代の英国で、フェアプレーを身につける紳士教育の一貫としてフットボール(日本ではサッカーと呼ぶ)が、パブリックスクール(英国の上流階級の子弟が通う中高一貫の私立校で公立高校ではない。イートン校などが有名)において採用されるようになったが、最初は学校によってルールが異なっていた。最も大きな差異は「手」を使ってよいか否かであったらしい。やがてゲームの普及に伴って対外試合が増加すると、ルールをそのつど決めるのを避けるために、共通ルールの必要性が浮上し、1846年にケンブリッジ大の提案したルールが採用されるに至った。その後、「手を使う」ルールを主張するグループが1863年に離脱(ラグビーとなる)し、現在のルールの原型が固まった。

このルールには、驚くべきことに、試合には不可欠なはずの主審(レフェリー)が存在しない。当時は、スポーツを英国における紳士教育の一貫として位置づけていたために、ルールは選手を縛るものではなく、選手が楽しく安全に公平に、思う存分試合をするためにあると考えられ、選手の自律性に重きを置いていたことによる。なにより、フェアプレー精神が生きており、ルール順守が当然で、仮に反則があっても故意ではないと看過された。試合では、双方のチームから一人づつ出たアンパイアが「つえ」を振りながら進められた。(ここでいうアンパイアとは、ゲームの進行中にルールが守られているかどうかを判定する役割のことであり、レフェリーがゲームをコントロールする権限を持つことと大きく異なる)

主審不要という考え方は、勝ち負けに拘泥するのではなく、あくまで「紳士」としてふるまえということで、建前に過ぎるともいえるが、一方ではパブリックスクールはスパルタ教育だったらしいので、上流階級特有の「のどかな」息抜きとして考えていたのかもしれない。

しかし、サッカーがルールの整備と共に急速に広がっていく中で、そんなのんきなことを言ってばかりもいられなくなる。きっかけの一つは英国対スコットランドの国対国の試合が開催されたことで、サッカーというゲームが大衆の大きな支持を得るようになり、そこで名誉だけでなく名声やさらには富さえも得られるようになった。当然、ゲームの結果にこだわるようになり、意図的な違反が続出(そりゃあそうだろう)、判定もえこひいきの文句がつけられるなど収拾がつかなくなったため、まずアンパイアを中立の立場から選ぶようになり、さらにはピッチ外にも判定を下すレフェリーを置くようになった。

さらに1890年になると、アンパイアはつえを旗に変えてタッチライン際に立ち、レフェリーは笛と手帳と時計を持ってピッチに入る現在に近い形が整った。プレイヤーの自律を重んじる考え方から、ゲームをコントロールする、すなわち白黒を決する権限を持つレフェリーに大きく比重が移ったのは、ある意味では現実的なルール変更ではあるが、一方では初期のフェアプレー精神が徐々に希薄化したことに対する止むを得ない妥協策であったともいえる。”

 

まぁまあ長いんで要約すると

・紳士はフェアプレーは当然なのでレフェリーはいらない

・金と名誉がかかってくると勝利にこだわり、反則を行ってしまう

・そこでレフェリーを置いた

 

って感じですかね。

現在までレフェリーがいないスポーツは本当に“紳士のスポーツ”なんだなあと改めて感じました。ティーブレイクあるし。

 

おわり